わたしは隣の県に住みながら、益城町については無知であった。
熊本県の歴史散歩の本を開いても、名所旧跡らしきものがないらしい。
昔「通潤橋」を観光したときに、通過したかも知れない。
そこでネット検索で、古代の益城町の歴史を少ししらべてみた。
1)<益城の郡>(ましきのこおり)
山上憶良と麻田陽春(あさだのやす)の大伴君熊凝(くまごり)を悼む歌八首の憶良の序文に、
大伴君熊凝は、肥後国(ひのみちのしり)益城の郡の人。年18歳、天平 3年 6月17日に、相撲の部領使(ことりつかい)の国司の従者となり、奈良の都に向かった。
しかし天運に恵まれず、苦しい旅道の半ばで病にかかり、安芸の国佐伯の郡高庭の駅家で亡くなったとある。
憶良の短歌には、つぎの歌がある。
出でて行きし 日を数えつつ 今日今日と 我(あ)を待たすらむ 父母らはも(万葉集・巻5・890)
憶良は、少年熊凝の気持ちになりきって、その死者が後に残る両親を思う情を詠んでいる。
益城郡は、現在は上益城・下益城に分かれている。
『和名抄』は、8郷をあげているが、熊凝はどの郷出身かは未詳。
「君」は、地方の遠隔地の半独立的土豪などに、与えられた姓。
だから、熊凝少年は、益城郡では有力者の豪族の家の出身だった。
大伴君熊凝は、肥後国(ひのみちのしり)益城の郡の人。年18歳、天平 3年 6月17日に、相撲の部領使(ことりつかい)の国司の従者となり、奈良の都に向かった。
しかし天運に恵まれず、苦しい旅道の半ばで病にかかり、安芸の国佐伯の郡高庭の駅家で亡くなったとある。
憶良の短歌には、つぎの歌がある。
出でて行きし 日を数えつつ 今日今日と 我(あ)を待たすらむ 父母らはも(万葉集・巻5・890)
憶良は、少年熊凝の気持ちになりきって、その死者が後に残る両親を思う情を詠んでいる。
益城郡は、現在は上益城・下益城に分かれている。
『和名抄』は、8郷をあげているが、熊凝はどの郷出身かは未詳。
「君」は、地方の遠隔地の半独立的土豪などに、与えられた姓。
だから、熊凝少年は、益城郡では有力者の豪族の家の出身だった。
2)肥後の国府の場所は、水害のため白川から緑川の周辺を転々と移されたといわれている。
当初は、飽田(現在の熊本駅近くの二本木付近)にあったようだが、洪水の後、少し高台の益城国府(下益城郡城南町)に移転したようだ。
しかし、益城国府については存在した期間が短く、確かな史料も少ないし、現在遺跡はなにも残っていない。
当初は、飽田(現在の熊本駅近くの二本木付近)にあったようだが、洪水の後、少し高台の益城国府(下益城郡城南町)に移転したようだ。
託麻という説もあるが、ここも低地で、洪水の被害はおおい。
しかし、益城国府については存在した期間が短く、確かな史料も少ないし、現在遺跡はなにも残っていない。
益城国府で有力なのは「陣内」と「宮地」と「古閑」とされていて、肥後の国の益城国府は「陣内、古閑、宮地」のどこかに移転していたようだ。
しかし不便のため、最後(平安末期~)は、また飽田国府にもどったことは間違いない。
3)益城町にある大手企業は、再春館製薬の本社・工場である。
OR学会の九州支部長時代に、ここの社長と懇親があった関係で、会社の被害を心配している。
孫娘がつとめている再春荘病院とは、名前が似ているが、これは、どちらも細川藩時代の薬草園の名前からなづけられたものだ。
再春荘病院は戦前から合志市に有る国立病院機構で、こちらは地震被害はなかったようだ。
OR学会の九州支部長時代に、ここの社長と懇親があった関係で、会社の被害を心配している。
孫娘がつとめている再春荘病院とは、名前が似ているが、これは、どちらも細川藩時代の薬草園の名前からなづけられたものだ。
再春荘病院は戦前から合志市に有る国立病院機構で、こちらは地震被害はなかったようだ。
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