遠山金四郎(江戸町奉行)
天保11年(1840)3月2日、『遠山の金さん』こと遠山左衛門尉景元(通称・金四郎)が江戸北町奉行に任命されました。
江戸町奉行は、現在の警視庁長官と都知事と東京地裁長官をあわせたような非常に重い職務です。
江戸幕府は基本的に権力の集中を避けるため同じ職務を複数の人に割り当てており、月交代で担当になることになっています。江戸町奉行の場合も、南町奉行と北町奉行があって、1ヶ月ごとに仕事をしていました。遠山金四郎ははじめ北町奉行でしたが、のち南町奉行になります。
遠山金四郎は吉宗の時代の大岡忠相(越前)と並び称される名奉行でした。
大岡忠相が享保の改革を行った将軍・徳川吉宗の腹心として活躍したのに対し、遠山は天保の改革を行った老中・水野忠邦に近い人物として重用されました。
吉宗は紀州藩出身者を登用して、新しい職種をもうけ、政治改革をしました。
吉宗と忠相は非常に信頼深い関係であり、旗本の身分から、はじめて大名格の町奉行に登用され、火付盗賊改方などをもうけて、江戸の治安をはかりました。
火付盗賊改方には「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵などがいました。
一方、景元と水野忠邦の間は常に緊張感のある関係であったようです。
遠山景元が北町奉行として活躍した時代、南町奉行は鳥居甲斐守忠耀でした。
鳥居が天保の改革を厳密に実行しようとしたのに対し、遠山景元はそれを緩和して庶民の暮らしを守ろうとし、両者は常に緊張関係にありました。
例えば鳥居がある時、風紀上よくないとして江戸中の舞台小屋を全て廃止しようとした時、遠山は全て廃止するのはひどいとして、数個を残せるように交渉し、江戸の人々に喝采されました。
当時江戸の人々は、鳥居のことを名前に引っかけてキツネと呼び、対して遠山のことをその更に上手のタヌキと呼んでいました。
何かと対立していた二人ですが天保14年(1843)2月24日、鳥居は非常に巧妙な策略で遠山を陥れ、遠山は閑職の大目付に左遷(形式上は昇進)されてしまいました。
しかし、そこからの遠山は大したものでした。鳥居を遙かに越える謀略で、ほとんど綱渡り的な反撃を行い、鳥居は失職します。鳥居忠耀のいろいろな違法行為が暴かれて、鳥居は四国丸亀藩お預けとなりました。そして、その後任の南町奉行には遠山自身が任命されました。
こうして遠山は弘化2年(1845)3月15日から嘉永5年(1852)3月20日まで、今度は南町奉行として、再び江戸庶民の権利を守るために活躍しました。
大目付から南町奉行へという公式には降格になるこの人事は異例中の異例ともいえるものでした。
さて、遠山景元は嘉永5年町奉行を辞任すると、晩年は帰雲という号で俳句を書いたりして悠々自適の余生を送り、3年後の安政2年2月29日に亡くなりました。
景元のお墓は西巣鴨の本妙寺にあります。
明治維新以後、世間がだいぶ落ち着いて来たころ、徳川慶喜が東京市長にならないか?と相談されたとき、「おれに町奉行をやれと言うのか!」と拒否したそうです。元将軍さまがやれる仕事ではないですね。
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