浦 宗勝 肖像 |
これに対抗して大友宗麟は、毛利家の本国・山口に別働隊を送り込んだ。毛利軍は宗勝以下わずかの兵を残して退却し、味方の撤退を見届けた宗勝は、降伏勧告をうけいれて同年10月に開城した。大友軍は浦たち毛利残留兵を芦屋まで送り、本国に帰還させた。
その後隆景は秀吉につき、秀吉の九州平定後、筑前名島城に入ったとき、宗勝は立花城代(2万8千石)を命じられた(1587)。
1592年9月に病没(関ヶ原の8年前)。
真福寺という寺に葬られたが、隆景は寺の名前を宗勝寺と改めさせ、寺領20石を寄進した。
本堂左手の樹林の中に宗勝の墓がある。
宗勝寺本堂 |
楼門と鐘楼 |
宗勝の墓 |
本堂は三日月山に面しており、立花山頂はマンションの影になっている。
浦宗勝の菩提寺は広島県竹原市忠海に所在する勝運寺である。
浦宗勝は、小早川氏の分流、乃美氏の家に誕生したが、父が同じ小早川氏の諸流である浦氏を相続したことにより、浦氏となる。 宗勝は、小早川隆景の指揮下で、小早川水軍の統括責任者で毛利水軍の主力軍の武将として各地に転戦、目覚しい戦果を上げている。
1555年の厳島合戦前夜には、毛利元就の意向を受けて、来島水軍への応援依頼に出向き、来島氏との交渉を引き受けていたのも、宗勝であった。
宗勝は、終生小早川隆景の下で、小早川水軍の提督とし活躍し、黒田官兵衛が信長に付いた時は交戦したこともあり、その後秀吉による九州征伐に出陣し、立花城代となったあと病死した。
前述のように遺骸は下原の宗勝寺(生前母の菩提寺として建立していた寺)に葬られた。
その後、小早川隆景が、筑前から三原に隠居したとき、宗勝の一族も殆ど小早川隆景とともに三原に従い、同時に宗勝の遺髪をこの勝運寺に葬ったという。一部の一族が克己さんのように九州に残ったらしい。
小早川隆景の墓も宗像市大穂の宗生寺にある。これは別の頁でふれる。
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