2016年4月1日金曜日

多々良川河口の歴史(船入り場と九大ヨット艇庫)

 1)古代の名島の地形
古代の名島は博多湾に突き出た岬の先端部にあった。
その付近で発見された名島古墳は古墳時代初期の古墳で、この地方でも古い遺跡である。古代からこの地区には海洋民族が住み着いていた証である。
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2)多々良川と名島城
中世には多々良川周辺は堆積土で周辺の土地がひろがり、人家や田畑がひろがった。
また先端の丘に名島神社、弁財天、神宮寺、宗栄寺などがあり、その下の黒崎海岸には神功皇后ゆかりの帆柱石がある。
中世になって立花城の出城が名島にきずかれ、南北朝時代に足利尊氏が九州までのがれてきて、菊池勢との多々良川決戦で勝利をおさめた場所でも有名である。その後も毛利・大友の対決の戦場ともなった。
その後豊臣秀吉の九州平定で、筑前が小早川隆景の領地となり、その本城が海に面した名島城として築かれた。
小早川は水軍を得意とする武将で、城は次の図のように海続きの掘割で囲まれている。
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残念ながらこの時代の武家屋敷の地図は簡単まものしか残っていないようで、この堀の側には宗栄寺が存在していた。屋敷図にある浦一族は立花城の城代家老であった。
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(周辺は風向明媚で、妙見島は秀吉・淀君の茶会が催された場所でもあった。またわが家の菩提寺もこの地にあったが城下町建築のため、この時期に箱崎に移転させられたという。)
今回はこの名島城の掘割の場所の、その後の変化を調べるのがメインテーマである。

3)黒田長政時代の名島城と武家屋敷
隆景は10年くらいで備前三島に隠居し、養子の秀秋があとを継いだが、有名な関が原の戦いのあと、黒田長政が筑前の領主に代わった。
長政が名島城にはいった頃の城下屋敷の図が残っている。次の武家屋敷の図によれば、掘割の横に、のちに黒田騒動で有名になる五千石の栗田大膳の屋敷があったことがわかる。
その他の有名な黒田武士の名前が多くみえる。
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貝原益軒『筑前国續風土記』巻二「河水記」には「多々良川 金井手川とも云う 糟屋川なり。
穂波郡大野山、糟屋郡 山伏谷、又久原の谷、猪の山の谷よりも流出、多々良を経、名島に至りて海に入。多々良辺りにて川の広さ三十間、深さ二尺五寸」とあります。



そもそも、川の名称は流域上流の地名から採られる慣例ですから、この地図の「名島川」は、たまたま、編集が勝手につけたのだろう。


4)幕末・明治の名島城屋敷跡の見取り図
しかし長政は平和な江戸時代には名島城は土地が狭いとして、広大な面積のある福岡城の建設をはじめ、名島や立花の城の石材をすべて福岡城に運んでしまう。
したがって名島城とその屋敷跡は廃墟となったまま明治を迎える。
次の明治時代の村長真田広が作らせた名島城屋敷跡の見取り図をみると、濠にはいくつか通路がもうけられて、上、中、下の濠に分断されている。そして船入り場の形は明確ではない。
七兵衛屋敷跡の名があるが、これは黒田藩の御用商人として財を成したもので、栗田大膳の屋敷跡あたりを買い取り、使用してしたものらしい。
山頂の天守閣跡も最近福岡市が展望公園として整備するまでは、私有地となっていた。
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5)河口の船入り場と九大ヨット艇庫
多々良川河口の黒崎という字名の入り江は、昔から繋船、荷揚、船修理などに適した場所で、名島城の掘割にもなったが、その後は名島村の船入り場として利用されていた。
大正・昭和初期時代に東邦電力の発電所が建設されることになり、黒田の御用商人だった七兵衛屋敷跡も候補地の一部となり、さらに河口域が約六千坪埋め立てられた。
この時多々良村の要請で、約八百坪の船入り場と四十坪の荷揚げ場が必要とする要望書が昭和5年に出された記録がある。そのときの船入場の計画図面が次の図面である。
また同時この一角に九州大学のヨットの艇庫と発電所に通じる冷却水の水路がもうけられたと思う。
ヨット部は昭和2年に結成され、3年に水面利用許可がでて、艇庫は6年に完成したが、台風で倒壊したあとまた再建された記録がある。
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昭和初期の地図(名島大橋の工事計画中のころ)には、この船入り場が少し拡張された形で明確に記載されている。また航空写真にもその一角がよく写っている。
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名島発電所、妙見島、水上飛行場などが見える。

国道3号線の大型名島橋の完成は福岡市の東区発展へ大きく貢献した。



九大ヨット部艇庫は、mixiの九大ヨット部仲間のタッチャンや季咸◆kikanさんが青春時代に通った思い出の場所であり、わたしも昭和18、19年頃、また家内も昭和24,25年頃通った場所である。


西戸崎には、海軍基地があり、戦時中にはヨット部(海洋班)は、体験入隊をして、カッター漕ぎや高速モーターボートの操縦などの訓練をうけた。終戦後は、米軍キャンプに接収されていた。

西鉄名島駅から艇庫に近づくと、発電所のコークスや石炭ガラの匂いが漂う場所をとおり、小川をすぎた頃から磯の香りが漂ってきたことを思い出す。日発時代の発電所では1月間ほど実習した経験もある。
当時は水面貯木場としても利用されたが、現在はさらに沖の埋め立て地の、かもめ大橋の西岸に専用の貯木場が新設されている。
(小学生の頃の遠足や磯遊び、貝堀りやのり採りなどの思い出多き場所で、学友のH,F君などの家もあった。)
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昭和25年頃の写真

6)最近の地形
その後の開発・埋め立てがすすみ、艇庫は昭和45年に西戸崎の大岳に移設され、さらに小戸に移設されて、名島はボート部の艇庫となった。
現在のボート部艇庫


現在の地図と名島城跡を重ねあわせたものが次の地図である。
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また次の昭和58年の航空写真もカラー化しているが、昔の船入り場あたりは高速道路の通過点の下となり、埋もれてしまっている。
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隠居後にこの場所の近くで(千早の九大仏青会館)福岡シニアネットのみなさんの東サロンに参加できて、そのおかげで名島の歴史研究会の中間報告会や現地案内などの会に参加できたのも、大変幸いであった。
以前BLOGで作成した下記のページと一部重複するが、そのアドレスを記載しておく。
http://gfujino1.exblog.jp/3420569/
 多々良河口の風景  2005.9月
http://gfujino1.exblog.jp/3272870/
 名島城と妙見島  2005.8月

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