島津家と徳川幕府と近衛家 |
関が原の戦では、徳川軍の正面突破をして鹿児島に逃げ帰った島津家であるが、徳川幕府時代では、加賀・仙台藩につぐ大藩としてなんとか生き残った。
その島津藩が、篤姫を将軍の継室として送り込むまでになった経緯は何処にあったのだろうかと調べてみた。
13代将軍家定の継室篤姫の場合はNHK大河ドラマで放送中のとおり、島津斉彬藩主が主導役で養女篤姫を近衛家の養女として、家定の継室に送りこんでいる。
(写真:島津斉彬、天璋院(篤姫)、13将軍家定)
それ以前に、11代将軍家斉の正室に、島津家から寧姫が迎えられている。(写真:家斉)
ただこの場合はまだ幼少時代に、将軍とは無関係な一橋家と島津家との婚約であった。
しかし10代将軍家治の嫡男家基が18歳で急逝したため、家治の後継将軍をめぐり、田安家と一橋家の間で一波乱があり、結局一橋家の家斉に将軍職が決まり、島津家出身御台所ができた。
この時も近衛家の養女という身分であり、8代将軍吉宗の養女浄岸院(竹姫)の遺言での婚約だったことで、反対意見が抑えられた。
さらに遡れば、5代将軍綱吉の養女・竹姫が婚期がおくれて、8代将軍吉宗の時代に、近衛家出身の天英院の斡旋で、島津継豊の後妻として嫁いできた経緯もある。
外様大名でありながら、将軍家の養女を妻に迎えたり、将軍家御台所を2人も輩出したことは異例であり、幕府との友好的な関係が成立したのは何故だろうか?
これらの縁組の背景には、すべて島津家と近衛家の深い関係があり、近衛家の斡旋によるものだったようだ。
そこで島津家と近衛家の関係を遡ってみると、歴史は古く鎌倉時代までとどりつく。
島津氏は秦の始皇帝の末裔と称する渡来人の秦氏の子孫で、惟宗氏の流れを汲む惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下った。即ち近衛家の部下だったのである。
その子の惟宗忠久が、源頼朝から同地の地頭に任じられ島津を称したのがはじまりとされ、のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移している。
その後室町時代・南北朝時代を通じて、近衛家とは親交があり、島津・近衛両家の縁組もいくつかあった。
だから主に九州にありながら天下の情報を得て島津家は戦国時代を乗り切り、さらに江戸時代となっても、徳川幕府と友好的に渡れたのであろう。
しかし、幕末時代の世界情勢をしってからは、ついに討幕の方向に転じたのは衆知の通りである。
その島津藩が、篤姫を将軍の継室として送り込むまでになった経緯は何処にあったのだろうかと調べてみた。
13代将軍家定の継室篤姫の場合はNHK大河ドラマで放送中のとおり、島津斉彬藩主が主導役で養女篤姫を近衛家の養女として、家定の継室に送りこんでいる。
(写真:島津斉彬、天璋院(篤姫)、13将軍家定)
それ以前に、11代将軍家斉の正室に、島津家から寧姫が迎えられている。(写真:家斉)
ただこの場合はまだ幼少時代に、将軍とは無関係な一橋家と島津家との婚約であった。
しかし10代将軍家治の嫡男家基が18歳で急逝したため、家治の後継将軍をめぐり、田安家と一橋家の間で一波乱があり、結局一橋家の家斉に将軍職が決まり、島津家出身御台所ができた。
この時も近衛家の養女という身分であり、8代将軍吉宗の養女浄岸院(竹姫)の遺言での婚約だったことで、反対意見が抑えられた。
さらに遡れば、5代将軍綱吉の養女・竹姫が婚期がおくれて、8代将軍吉宗の時代に、近衛家出身の天英院の斡旋で、島津継豊の後妻として嫁いできた経緯もある。
外様大名でありながら、将軍家の養女を妻に迎えたり、将軍家御台所を2人も輩出したことは異例であり、幕府との友好的な関係が成立したのは何故だろうか?
これらの縁組の背景には、すべて島津家と近衛家の深い関係があり、近衛家の斡旋によるものだったようだ。
そこで島津家と近衛家の関係を遡ってみると、歴史は古く鎌倉時代までとどりつく。
島津氏は秦の始皇帝の末裔と称する渡来人の秦氏の子孫で、惟宗氏の流れを汲む惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下った。即ち近衛家の部下だったのである。
その子の惟宗忠久が、源頼朝から同地の地頭に任じられ島津を称したのがはじまりとされ、のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移している。
その後室町時代・南北朝時代を通じて、近衛家とは親交があり、島津・近衛両家の縁組もいくつかあった。
だから主に九州にありながら天下の情報を得て島津家は戦国時代を乗り切り、さらに江戸時代となっても、徳川幕府と友好的に渡れたのであろう。
しかし、幕末時代の世界情勢をしってからは、ついに討幕の方向に転じたのは衆知の通りである。
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