2016年4月16日土曜日

陸奥 宗光・亮子と寿福寺

陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日1844年8月20日) - 明治30年(1897年8月24日)は、紀州藩士、外交官政治家
明治初期に行われた版籍奉還廃藩置県徴兵令地租改正に大きな影響を与えた。
また、カミソリ大臣と呼ばれ、第2次伊藤内閣外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった
その妻、陸奥 亮子(むつ りょうこ);安政3年(1856年)11月 - 明治33年(1900年8月15日
没落士族の旗本金田蔀の長女として江戸に生まれた。
明治の初めに東京新橋柏屋の芸妓となり、小鈴(小兼)の名で通り、板垣退助に愛された小清とならんで新橋の双美人と呼ばれ、新橋で一、二を争う美貌の名妓だったという。

しかし花柳界に身を置きながら、男嫌いという評判もあり、身持ちも堅かったといわれる。
明治5年(1872年)2月、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなり、同年5月に17歳で宗光に見初められて後妻となった。12歳年下であった。
陸奥宗光
先妻の遺した子は、長男・広吉(1869年 - 1942年)と次男・潤吉(1870年 - 1905年)の2人だった。
結婚の翌年、宗光との間に長女・清子(さやこ)が生まれ、明治10年(1877年)には舅にあたる伊達宗広が死去している。

明治11年(1878年)、政府転覆運動に荷担した疑いで夫の宗光が禁固5年の刑に処せられ、山形監獄(のちに宮城監獄)に収監された。亮子は、宗光の友人の津田家に身を寄せて姑の政子に仕え、子育てをしながら獄中の宗光を支えた。
宗光は亮子にたくさんの手紙を書き送っており、宮城監獄収監中に相愛の夫婦の慕情を漢詩にして亮子に贈っている。

明治15年(1882年)、宗光は特赦によって出獄を許され、翌明治16年(1883年)から伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。
宗光が外遊の間に亮子に宛てた書簡は50通を越える。明治19年(1886年)、宗光は帰国して政府に出仕する。
宗光とともに社交界入りした亮子は、英語やダンスを習得し、洋裁もみずから手がけて、戸田氏共の夫人・極子や伊藤博文の夫人・武子などとともに、「鹿鳴館の華」と呼ばれた。
伊藤武子


洋裁を自得


鹿鳴館




明治21年(1888年)、駐米公使となった宗光とともに渡米する。
その美貌、個人的魅力、話術によって第一等の貴婦人と謳われ「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称された。
また日本の小説を英訳して出版し、日本文化の普及にも貢献した。
その活躍は当時の米紙にも大きくとりあげられている。

宗光・亮子と娘・清子
公使館の応接室
駐米時代のフォト
駐米時の新聞記事

帰国後外務大臣など勤めた宗光は引退後、二人での老後の静かな余生を暮し、宗光の死後3年で亮子もなくなった。


晩年の夫婦
二人の墓所は大阪市天王寺区夕陽丘町にあったが、昭和28年(1953年)に鎌倉市扇ヶ谷寿福寺に改葬された。
鎌倉の寿福寺には、吉田茂が建立した顕彰碑もある。




また郷里の和歌山や関西にも、顕彰碑が多い。
 

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