2016年4月14日木曜日

家康と秀頼と信繁(大阪冬の陣・夏の陣)

関ヶ原の戦で勝利した家康は、天下平定のため、朝廷との交渉や威圧のため、京都に二条城を築き、交渉の結果、源氏の流をくむ征夷大将軍の位を手にいれた。そして2年後には秀忠にその位をゆずり、大御所としての政務をおこなった。



また一方では、秀吉が死亡したあとも、家康は秀吉との約束を守り、秀頼と千姫の結婚を実施する。

しかし秀吉が残した大阪城の包囲網を考え、周辺に譜代大名による五つ城を築いた。くわしくみるとさらに多くの城がふえた。

名古屋城は特に巨大で、多聞櫓の多い堅固な城であった。


天守閣の石垣には、特殊な櫓の計画あとものこされている。

最後は秀吉の遺児、秀頼を家臣とするために二条城で会見する。13歳で右大臣までなっていたので、そのまま成長すれば摂政関白まで上り詰める可能性があったからだ。
立派に成長した秀頼をみて、家康の不安はたかまり、最後の手段として、大阪の陣へとすすんでいった。
豊臣側が建立した寺院の梵鐘の、「国家安康」という文字にいいがかりをつけた。これは黒幕の僧侶金地院崇伝の智恵入れといわれている。
どうする家康での、冬の陣

大阪冬の陣をおこした家康だが、豊臣残党の10万による大阪城の守りはかたかった。ここでは秀頼と真田信繁のゆかりもできた。
冬の陣では立花宗茂も徳川陣に参加(黒田長政は江戸城の留守番役)

上杉景勝、毛利秀就、佐竹義宣らかつては三成方だった大名らも追討軍に加わり総勢は20万とも。
一方で豊臣恩顧の大名とされた、福島正則、加藤嘉明、黒田長政らは江戸に留置かれた。
豊臣方に寝返るかもしれない、そう家康は疑ったからだ。
実際、福島正則は大坂の蔵屋敷にあった、備蓄米を豊臣方が挑発したのを黙認している。
(福島正則、加藤嘉明らの嫡男たちや一族は参陣している)

真田信繁がたてこもった真田丸にてこずった家康は、講和のみちをえらんだ。
豊臣方は関ケ原で改易になった浪人、徳川方は関ケ原で戦った武将の2世で戦争を知らない子供世代中心。数の上では豊臣方を上まわってるものの徳川方が劣勢だった。
真田丸
講和条件の外堀だけでなく内堀まで埋めてしまった徳川側に、豊臣側は夏の陣をおこすが、もはや勝ち目はなかった。

秀頼の妻千姫は、母茶々の姪でもあり、家康の孫でもあるので助けだされた。

千姫を庇う茶々
大阪夏の陣のおり、秀頼をかくまって信繁が九州まで落ちのびたという伝説ものこっている。
天下統一後の家康の政策は、天皇家、公家とならんで、武将たちを法律で押さえ込むことで、江戸幕府260年の安泰を築いた。
家康の遺訓には、その人生の苦労が刷り込まれている。



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