また一方では、秀吉が死亡したあとも、家康は秀吉との約束を守り、秀頼と千姫の結婚を実施する。
しかし秀吉が残した大阪城の包囲網を考え、周辺に譜代大名による五つ城を築いた。くわしくみるとさらに多くの城がふえた。
名古屋城は特に巨大で、多聞櫓の多い堅固な城であった。
天守閣の石垣には、特殊な櫓の計画あとものこされている。
最後は秀吉の遺児、秀頼を家臣とするために二条城で会見する。13歳で右大臣までなっていたので、そのまま成長すれば摂政関白まで上り詰める可能性があったからだ。
立派に成長した秀頼をみて、家康の不安はたかまり、最後の手段として、大阪の陣へとすすんでいった。
豊臣側が建立した寺院の梵鐘の、「国家安康」という文字にいいがかりをつけた。これは黒幕の僧侶金地院崇伝の智恵入れといわれている。
どうする家康での、冬の陣 |
大阪冬の陣をおこした家康だが、豊臣残党の10万による大阪城の守りはかたかった。ここでは秀頼と真田信繁のゆかりもできた。
上杉景勝、毛利秀就、佐竹義宣らかつては三成方だった大名らも追討軍に加わり総勢は20万とも。
一方で豊臣恩顧の大名とされた、福島正則、加藤嘉明、黒田長政らは江戸に留置かれた。
豊臣方に寝返るかもしれない、そう家康は疑ったからだ。
実際、福島正則は大坂の蔵屋敷にあった、備蓄米を豊臣方が挑発したのを黙認している。
(福島正則、加藤嘉明らの嫡男たちや一族は参陣している)
真田信繁がたてこもった真田丸にてこずった家康は、講和のみちをえらんだ。
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