2021年4月9日金曜日

第2の渋沢:井上準之助と 辰野金吾・隆の縁

 


                   井上準之助

  • 1869年(明治2年) - 現在の大分県日田市大鶴町に造り酒屋を営む井上清・ひな夫妻の五男として生まれた。生家の井上酒造は、1804年創業の酒蔵であったが、7歳の時に叔父、井上簡一の養子として生家を離れている。しかし、養父の病没で11歳で家督相続したものの、すぐに実家に復籍している。
  • 教英中学中退、上京後、成立学舎などに通う。
  • 1888年(明治21年) - 仙台第二高等中学校予科1年次入学。高山樗牛と同級で、卒業時にはそれぞれ法科と文科の首席を分け合う。
  • 1893年(明治26年) - 帝国大学英法科入学
  • 1896年(明治29年) - 帝大卒業後、日本銀行入行

帝大卒業後に日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。

第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。

                   辰野金吾
  • 1854年(嘉永7年)肥前国(現在の佐賀県唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門とオマシの間に次男として生まれる。姫松家は足軽よりも低い家格であった。
  • 1868年(明治元年)叔父の辰野宗安の養子となる。
  • 1873年(明治6年)工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学。
  • 1875年(明治8年)二年終了後に、造船から造家(建築)に転じる。
  • 1879年(明治12年)造家学科を首席で卒業。
  • 1880年(明治13年)英国留学に出発。コンドルの前職場と出身校であるバージェス建築事務所とロンドン大学で学ぶ。
  • 1883年(明治16年)日本に帰国。
  • 1884年(明治17年)コンドルの教授退官後、工部大学校教授に就任。
  • 1886年(明治19年)帝国大学工科大学教授、造家学会(のちの日本建築学会)を設立。辰野金吾建築事務所を設立(所員は岡田時太郎
  • 1898年(明治31年)帝国大学工科大学学長。5年後辞職。
  • 1903年(明治36年)葛西萬司と辰野葛西事務所を開設(東京)。
  • 1905年(明治38年)片岡安と辰野片岡事務所を開設(大阪)。
  • 東京駅や日本銀行などの建築設計を行ったことで有名。

  •               辰野隆(辰野金吾の長男)

  • 辰野金吾と井上準之助は、15歳の年齢差はあったが、おなじ九州の出身であり、日銀本社の設計等の縁で親交があったようだ。
  • 息子の隆が東大卒業の時期になっても、一向に就職の意志が定まらないのに困った金吾は、井上準之助に紹介状を書いて、日銀の就職面接にいかせた。
  • やむなく面接試験をうけにいった隆であったが、井上との面接で、ますます日銀への就職意志がなくなり、翌日にみずから、あやまりに出かけたという。
  • そのとき、はじめてフランス文学に関連する仕事に取り組みたいと決意したようだ。その気持ちを井上に伝えた時、井上は、そうか。大いに勉強したまえ。自分もつくづく世の中がいやになるときがある。そのうち坊主にでもなるかな。といったという。
  • その後20年、井上は時代の潮流に乗り続け、流され、日銀総裁になり、蔵相となり、財界世話業者となり、二度目の蔵相からさらに総理にならんとしたとき、不幸にも凶変の犠牲となった。
  • 隆は、その凶変を知った夜、20年前、一介の書生に好意を惜しまなかった野心家の最後を悼むとともに、自分が悟道の先達であったと、感じたそうだ。

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