2021年4月17日土曜日

名島水上飛行場

 今日の地元新聞にリンドバーグの日本への飛来記事がでた。




「1931年9月17日、福岡市東区にあった名島水上飛行場にリンドバーグ夫妻が乗る飛行機が着水した。福岡市東区名島2丁目に住む奥磯美さん(90)はリンドバーグ機の飛来を午後4時ごろだったと記憶している。「真っ赤な飛行機が着水してドキドキした」。リンドバーグ夫妻が乗る2人乗り水上機「ロッキード・シリウス号」だ。飛行場には約100人の見物客が来ていた。「あんなかっこいい飛行機は当時、見たことがなかった」と振り返る。」
私と同じ年齢の人で、当時5,6歳であったはず。わたしの家の2階から名島の発電所はみえていたが水上飛行場はその奥であった。わたにも微かな記憶はあるが、現地をみていないので、当時の鮮明な記憶はない。
若い頃の大西洋単独横断飛行や幼児誘拐被害事件などは有名だ。この事件を契機に、アガサ‣クリスティの「オリエンタル急行」の作品が書かれた。
しかしナチ時代のドイツ空軍に招かれて、ドイツの空軍力の強化に協力したことも手伝い、第二次大戦への米国参戦には猛反対し、ルーズベルト大統領と大論争になり、一時は非愛国者の批判も浴びたことや、日米戦争の開始後には、一市民として戦争に参加し、ゼロ戦と戦ったことなどはあまり知られていない。

続き:

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、アメリカ合衆国の飛行家で、1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したことで有名だ。1931年には北太平洋横断飛行にも成功し、この年に日本にも飛来し、名島にも水上飛行機で来たことは良く知っていた。
今週のテレビで、彼の後半生の活躍が詳しく紹介された。
彼は 第二次世界大戦前夜、アメリカ軍の要請でドイツに何度か旅行し、ドイツ空軍の優秀さについての報告を行った。
1938年にはヘルマン・ゲーリングから勲章を授与されたので、ナチス党政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受けた。
1941年12月7日に日本との戦争が開始されると、リンドバーグは「参戦には反対だったが、開戦した以上は祖国への義務を果たしたい」として陸軍航空隊への復帰を試みたが、拒否され復帰できなかったので、政府と航空会社に対する民間のコンサルティング会社を通じて、アメリカ政府の戦争に協力し、 1944年までに民間人として太平洋で50回の実働任務をこなしており、九九式襲撃機などの日本機とも何度か交戦している。1944年7月28日には、日本占領下のオランダ領東インド(現在のインドネシア)東部にあるモルッカ諸島のセラム島空域でアメリカ陸軍の第433空輸輸送団の支援任務中に日本陸軍の第7飛行師団傘下の独立飛行第73中隊と交戦し、指揮官の島田三郎中尉機を撃墜した。
戦後は1953年に大西洋単独無着陸飛行について書いた 『翼よ、あれがパリの灯だ』)を出版し、これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。同書は1957年にビリー・ワイルダー監督の手で映画化された。
1970年には訪日し、大阪万博を訪れた。万博では1931年にニューヨークから日本を経て中国まで飛行した際に使用した水上飛行機シリウス号が展示された。
晩年は、妻のアン・モローと共にハワイ州のマウイ島に移り住み、自然環境の保全に力を注ぐようになり、世界各地を回り、環境保護活動に参加、多額の資金を寄付した。



名島でのパレード

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