2021年4月25日日曜日

苦楽を共にした立花宗茂の股肱の臣 ◆ 世戸口 十兵衛

「世戸口十兵衛」

当時、太宰府のトップは、藤原光隆、その次官が菅原善昇で、安楽寺の別当をかねていた。

菅原善昇の分家筋に、世戸口十兵衛という人物がいた。世戸口という姓は、他家を継いだか、主君から頂いたか不明である。

世戸口十兵衛は弓術・水練の達人で、その直な人柄を買われて高橋紹運の部下になっていた。高橋紹運は太宰府の岩屋城の城主で、太宰府の管理人や寺院の僧侶たちと、懇意にしていたようだ。

高橋家と同じ大友の家臣である立花城主とのあいだで、嫡男・統虎(宗茂)が、立花家との養子縁組の話が成立し、当時15歳の統虎の随行臣として、大田久作と共に世戸口十兵衛が随従を申しつけられる。

紹運は統虎との別れの宴を行い、統虎に教訓をたれた後、十兵衛に親しく語りかけ
 古来より、「勇将の元に弱卒なし」と云われておる。
彼の道雪公は、天下無双の剛将で義理堅固のお方である。麾下に義烈の士はなはだ多い。その方、幼少の統虎と共に立花に行くからには、よく輔け導き、忠言を呈して、勇将の嗣子として恥ずかしくない立派な武人にしてもらいたい。もし、統虎の言動に立花家の信をかくような事があれば、その方はこの刀で自害し、道雪公にお詫びすると共に、統虎に忠諌し悔悟の念をおこさせよ」
と言って、その時の為にと九寸五分の短刀を与えた。
またこの時、紹運より「紹」の字を頂き「紹兵衛」を名乗ることを許され、。統虎に随従して立花家士になった十兵衛は、以後統虎の後見または監視役として仕え、統虎と立花家の家臣団との折衝にあたる。
また、長男の身で養子に出された統虎の心情をよく理解しつつ、厳しく接していたようである。

天正12年に、道雪が他界し、統虎が城主となり、九州北部で相次いだ合戦に目覚ましい働きをして、その功を秀吉に認められて、柳川城主13万2千石をあたえられた。
この時世戸口十兵衛には500石が給された。

その後、秀吉の朝鮮出兵に参戦する際に、
統虎は名を宗成と改めて参戦し、十兵衛も現地で活躍した。
秀吉の死後、家康の勢力拡大に宗成は当惑する。


■ 関ヶ原役 大津城


慶長五年(1600)
「関ヶ原の戦い」の前哨戦、京極高次の篭もる「大津城攻め」に参戦する。
九月十四日、
落城が目に見えはじめた為、攻城の大将・毛利元康は、高野山の木食上人を遣わして降伏を進めたが、高次はこれに従わない。その時、宗茂は家老の十時摂津に向かって
「この度の一戦は京極殿に対しての遺恨ではない。ただ、故太閤殿下への御恩報いる為である。京極殿が降参されれば、一命は助け様と思う。」
と言うと、摂津は
「その旨を伝えられるなら、矢文がよいでしょう。」
と答えたので、宗茂は自筆を認めて、弓の名人である十兵衛に射させる事にした。十兵衛は、
「諸将の兵が注視している中で射損じるなら、自分の恥だけでなく立花家の恥になる。」
と固持したが、主君から厳命された為、止む無く引き受ける事となった。
十兵衛は宗茂から書状を受け取ると、鏑矢を抜いて、これに堅く結びつけた。丁度、数町離れた城中に、四つ目の旗が一段と高く風になびいていた。宗茂はそれを指差して、
「あれは京極殿の馬印である。あれを射よ。」
と命じたので、十兵衛は静かにねらいを定めて、矢を放った。
矢は城中に入って、見事にその旗竿を射切り落下した。この状況を見ていた両軍の将兵は、どっと喝采を上げて暫らく鳴りが止まなかった。そして
「那須与一の扇の的も、きっとこのようであったろう」
と、十兵衛を称賛せぬ者はなかったという。この十兵衛の放った矢文を受け取った高次は、遂に九月十四日降参した。きしくも、関ヶ原の合戦の前日であった為、人々は「あと一日守っていれば大国の主と成れたものを」と、揶揄した。
 自決、宗茂の嘆き

十兵衛の最後は、あまりにも呆気ない。
関ヶ原で主力の敗戦により、西軍は空中分解し、宗茂も領国・柳河に引き上げる事となった。
船で長門国・壇ノ浦に差し掛かった頃に、嵐に襲われ、弓組・三十余人が乗っていた小船が風に煽られて転覆してしまった。辛うじて、近くの海岸に泳ぎ着いたのは、組頭の十兵衛と従者一人だけであった。
十兵衛は生き残った従者に
「殿の頼みとする屈強の勇士達を悉く死なせてしまった。自分一人、なんの面目があって帰ることが出来よう。自分は腹を切ってお詫びする故、そなたはその事を殿に伝えよ」
と言って、従容として切腹し果てた。
無事に柳河に帰りついた従者に、股肱の臣・十兵衛の最後を聞いた宗茂は、深く悲しみに沈んだという。




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