2021年4月7日水曜日

老いと土下座(和辻哲郎や森鴎外の体験)

 幼児は、保護者の援護無しでは、生きていけない。

老人も身体不自由になれば、介護者の援護なしでは、生きていけない。

幼児の場合は、泣くことによって、親や保護者が援護してくれるが、老人の場合は、言語が不自由になると、意志の伝達がうまくできなくなる。

しかも、過去の職歴や、人間関係が複雑な場合が多く、心理的に怒りや憤懣がたまることが多い。

親子であっても、憤懣が爆発していさかいとなり、殺人事件にまでなるケースがおこる。

老人は、老いては子に従えというが、その心境にほんとになれる人物は、少ないようだ。

和辻哲郎の隋筆に、「土下座」という題の文章がある。

ある友人が、祖父の葬儀に行ったときの話。田舎のことで、葬儀は墓地の近くの空き地で行われた。葬儀がおわり、会葬者に挨拶するため、出口の道端に荒蓆が一枚敷いてあり、そこに父にしたがって、二人でのった。

帰る会葬者にお辞儀をするのかと思っていたら、父がそこに座り込んだので、自分もあわててしゃがんだ。

ぞろぞろ帰っていく会葬者の腰から下の靴や足だけを見ながら、彼はふと、祖父の魂を中に置いて、これらの人々との心と、思いがけない交流をしていることに気づいた。

この人達の前に、土下座していることが、いかにも当然な、似つかわしいことのようにおもわれた。

土下座という姿勢が、すべての自己欲を忘れて、感謝の心理を引き出してくれるようだ。

要介護の老人になったら、つねに土下座の姿勢にならなければならないということだ。



「老いは漸く身に迫って来る。前途に希望の光が薄らぐと共に、自ら背後の影を顧みるは人の常情である。人は老いてレトロスぺクチフの境界に入る。」
森鴎外の晩年の随筆の一節である。
今の私の心境と同じである。
「わたしは何もしていない。一閑人として生存している。

しかし人間はエジェクチイフにのみ生きること能はざるものである。

人間は生きている限りは思量する。閑人は往々棋を囲み、骨牌を弄ぶ所以である。」・・・
そのあと気ままな、作詞や新聞への投稿などを続ける日々を紹介している。

医学的仕事など専門の仕事は全くゼロというのも同じである。
ただ掃除、洗濯、炊事などの家事の負担はなさそうな時代だ。




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