源氏物語に登場する人物で九州までやってきた人物は「玉鬘」ただ一人というのに、千年紀に協賛しての話であろう。
玉鬘は大宰府でうまれたという人までいたが、それはあやまりで、母の夕顔の死後、乳母につれられて筑紫にくだってきたのだ。
千年前には著作権もないし、出版社もないし、日付の入った文書もない。一番古い写本で1258年に写したと記載されているものがあるだけだ。
厳密には源氏物語の存在が記録された別の文書があり、千年前に宮中に流布していたと判断されて、千年紀になったという。
それは紫式部日記「寛弘5年11月1日:敦成親王五十祝」の記事からで、写真の絵巻に描かれた宴会の場面の会話に若紫や源氏の君の話が出てくるから間接的に判断しただけで、直接的な日時の表現は全くないままである。
その会話とは、左衛門の督「あなかしこ。このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、・・・というくだりである。
写真の絵では、一番右の蚊帳のなかの人物で、右の小手をかざしてなにやらものいう風情の男性が藤原公任(カネトウ):左衛門である。
さらに11月1日を古典の日にしようという提案まででているそうだから驚きである。
(以上は源氏物語研究者の九産大:田村隆先生から先だってきいた話)
昨日のテレビで、紫式部が源氏物語をかいた石山寺の風景などが紹介された。
紫式部が用いたとされるい硯 |
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