戦国時代の最初の下克上といわれる伊豆を制覇した北条早雲の歴史。
本名は伊勢新九郎盛時で、出家してからは早雲庵宗瑞と名乗った。
1456年生まれで、足利幕府の家臣の家柄で、幕府内で「申し次」の役職であった。
姉が今川家の今川義忠に嫁ぎ、その縁で今川家に出向した。
その時今川家で相続争いがおこる。 この争いをうまく調停した早雲は、伊豆近くの興国寺城主となる。
この頃伊豆の足利家堀越公方でも家督相続あらそいが発生する。正室の子義澄と側室の長男茶々丸のあらそいで、政知が死ぬと、茶々丸が円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きた。
権力の座に就いた義澄は母と弟の敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ早雲へ命じた。
11代将軍 足利義澄 |
これを受けて早雲は、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。
茶々丸は早雲に数年に渡って抵抗したが、早雲は伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1498年)8月に南伊豆にあった深根城(下田市)を落として、5年かかってようやく伊豆を平定した。
その後、次第に相模国に勢力を拡大していくが、これには20年の年月を要している。
0 件のコメント:
コメントを投稿