明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。
恩地の父も和歌山出身なので、友情が深まった。
平山郁夫画伯の美知子夫人の父親松山常次郎代議士も、和歌山県九度山のうまれで、恭吉より8歳年上である。
和歌山は美術家の誕生に適した環境だったらしい。
恩地の父も和歌山出身なので、友情が深まった。
平山郁夫画伯の美知子夫人の父親松山常次郎代議士も、和歌山県九度山のうまれで、恭吉より8歳年上である。
和歌山は美術家の誕生に適した環境だったらしい。
藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や
その後、恩地との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯「月映」を刊行した。
焦心 |
この作品はムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。
負担のかかる版画ではなく詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。
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