2016年5月30日月曜日

田中恭吉


田中恭吉:
明治25年(1892年)、和歌山市に生まれた。
明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。
恩地の父も和歌山出身なので、友情が深まった。
平山郁夫画伯の美知子夫人の父親松山常次郎代議士も、和歌山県九度山のうまれで、恭吉より8歳年上である。
和歌山は美術家の誕生に適した環境だったらしい。
翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。
藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や
自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。

その後、恩地との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯「月映」を刊行した。

しかし大正2年頃に肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。
焦心
この作品はムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。

負担のかかる版画ではなく詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。
 



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