1)以心崇伝(いしんすう1でん、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日(1633年2月28日))は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧。
本光国師の称は、寛永3年(1626)に後水尾天皇から授けられたもの。俗姓は一色氏。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与し、秀忠、家光の徳川3代にたよられていた。
若い頃各地の寺で修行し、比叡山で修行中、信長の焼き討ちにあう。
その後武田信玄に見出されてつかえ、頭角をあらわす。
その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市、のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。
家康に仕えるのは、天海73歳の時からである。
江戸の都市計画、長期計画を指導し、家康に東権現の提案をおこない、東照宮の建立を秀忠、家光の時代に指導し、108歳まで生きたとされる。
3)東昭宮:秀忠の時代に久能山東照宮、家光の時代に日光東照宮が出来ると、各大名も地元に東照宮を建立するブームがおこり、全国で600社以上になった。
筑前東照宮は今の照雲神社、薩摩東照宮は今の照国神社になっている。
その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市、のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。
喜多院には、あとで、江戸城の家光誕生の間などが移築されている |
家康に仕えるのは、天海73歳の時からである。
江戸の都市計画、長期計画を指導し、家康に東権現の提案をおこない、東照宮の建立を秀忠、家光の時代に指導し、108歳まで生きたとされる。
上野寛永寺周辺には京都と同じ清水寺や琵琶湖をまねた忍ばずの池などをつくった |
3)東昭宮:秀忠の時代に久能山東照宮、家光の時代に日光東照宮が出来ると、各大名も地元に東照宮を建立するブームがおこり、全国で600社以上になった。
東照社の宮号をもらい東照宮とし 全国に諸大名が600以上建立した。 |
天海は徳川の力を利用して、自らも宗教界の天下人的存在となった。
猿年では日光東照宮の三猿がよくTVにでてきた。今年は改修完了と家康の大河関連で、またよくTV紹介が多い。
三猿だけが有名だが、その前後シリーズには、子供が生まれてから子育て、恋愛、結婚、妊娠までの一生の物語がある。
ただし私のような老猿はいない。老猿はさる{去る}のみ。
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