2016年5月14日土曜日

家康と僧侶(以心崇伝と天海)と各地の東照宮




1)以心崇伝(いしんすう1でん、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日1633年2月28日))は、安土桃山時代から江戸時代臨済宗の僧。
字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)と呼ばれる。
本光国師の称は、寛永3年(1626)に後水尾天皇から授けられたもの。俗姓は一色氏
家康のもと幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、黒衣の宰相の異名を取った。起草した武家諸法度は崇伝により諸大名の前で読み上げられた。




2)天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日16432)年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。


南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正諡号は慈眼大師。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与し、秀忠、家光の徳川3代にたよられていた。


若い頃各地の寺で修行し、比叡山で修行中、信長の焼き討ちにあう。





その後武田信玄に見出されてつかえ、頭角をあらわす。
その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。
喜多院には、あとで、江戸城の家光誕生の間などが移築されている

家康に仕えるのは、天海73歳の時からである。
江戸の都市計画、長期計画を指導し、家康に東権現の提案をおこない、東照宮の建立秀忠、家光の時代に指導し、108歳まで生きたとされる。
上野寛永寺周辺には京都と同じ清水寺や琵琶湖をまねた忍ばずの池などをつくった


3)東昭宮:秀忠の時代に久能山東照宮、家光の時代に日光東照宮が出来ると、各大名も地元に東照宮を建立するブームがおこり、全国で600社以上になった。
東照社の宮号をもらい東照宮とし
全国に諸大名が600以上建立した。

筑前東照宮は今の照雲神社、薩摩東照宮は今の照国神社になっている。
日光東照宮は静岡久能山東照宮と富士山を結ぶ線の先にある。


大樹寺と久能山東昭宮の間に蓬莱山東照宮がある。



天海は徳川の力を利用して、自らも宗教界の天下人的存在となった。

猿年では日光東照宮の三猿がよくTVにでてきた。今年は改修完了と家康の大河関連で、またよくTV紹介が多い。




三猿だけが有名だが、その前後シリーズには、子供が生まれてから子育て、恋愛、結婚、妊娠までの一生の物語がある。


ただし私のような老猿はいない。老猿はさる{去る}のみ。

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