2016年5月9日月曜日

 騎馬民族国家説の解釈

 騎馬民族国家

わたしが学校教育で教えられたのは、世界に比類のない純血の皇室、万世一系の今上天皇への忠誠でした。

敗戦後、いわゆる皇国史観の呪縛がとけて、騎馬民族征服王朝説が提唱された。

 提唱者・江上波夫により、東北アジア系の騎馬民族が朝鮮半島を経由し、加羅・任那(伽耶)をステッピングストーンとして日本列島に侵入し、統一国家としての大和朝廷を開いた、という学説。

これを継承した水野祐や石渡信一郎や大羽弘道らは、第一次加羅系集団の渡来と第二次百済系集団の渡来があったなどと主張する。

二世紀・三世紀に北九州で栄えた邪馬台国も、卑弥呼が死に、台与による平安も長くは続かぬ。台与は朝貢していた魏に救援を要請する。
第一次加羅系集団は、騎馬軍団を有した崇神王が、342年頃南加羅の国王となり、魏の命をうけて350年頃に倭国に渡来して九州を平定し、さらに東征して大和盆地の纏向に王都を建設し、加羅と日本列島内にまたがる連合王国を築いた。
(日本書紀では、これを「神武東征」として記載しているが、神武は架空の人物で、実際は崇神であった。)

崇神王が東征した跡、九州の邪馬台にはしばらく空白状態が続く。そこに新羅や百済の騎馬民族系の王族が渡来し、台与国と名をかえて治める。

第二次百済系集団は、百済・蓋鹵王(在位455~475)の弟・昆支(440~506)が、461年に蓋鹵王の命で倭国に渡来して新羅系を排除して治め、さらに東征して河内にはいる。
ここで大和の崇神王朝と対立するが、やがて和平を結んで大和に入り、後に応神王となった。
(応神は九州うまれの説も強いが、東征のルートは崇神との類似性もあり、また期間は半減しているようだ。)

騎馬民族国家説によれば、日本古代史の大事件の謎が、ある程度うまく説明出来る。
① 高句麗の広開土王(在位391~412)の碑文
 公開土王は、400年に歩騎五万を派遣して新羅城に満ちた倭軍を退却させ任那まで追撃した。歩騎五万を要する「倭」は相当な勢力だったに違いないが、加羅と日本列島にまたがる領域を統治していた崇神王朝であれば理解できる。
② 人類学会の学説が明らかにした古墳時代の南朝鮮人の大量渡来は、加羅系集団と百済系集団の渡来によるものとすれば理解できる。

1949~53年にかけて小浜基次が大規模な和人の生体計測(56,495人)を基にして、畿内人は東北・裏日本型和人よりも朝鮮人に近いことを明らかにした。


埴原和郎は1986~87年にかけて、古墳時代とされている四世紀から七世紀までの間に、控え目にみても100万人以上の渡来者があったとしている。
応神の親衛隊・東漢氏が応神王朝の御世に17県人民を率いた大規模な帰化をしているのはその一例。

③ 応神を継いだ継体天皇(450~531)が512年に百済に任那の四県を割譲し、百済に肩入れしている。
継体もまた応神と同じく百済王家の王子なのだ。
④ 663年に百済復興のため、中大兄皇子が倭国滅亡の危機を侵してまで、白村江へ大軍を派遣し、当時の超大国・唐と戦って敗れた。

当時の唐は、漢時代よりも北方の騎馬民族と同盟したり、合併しており、強力な騎馬軍団をもっていた。




昔から崇神王や応神王は九州との縁が深いとされているし、古賀市の船原古墳周辺から出土した装飾馬具なども、この時代のもとといわれている。
日本の王朝が、渡来民族に征服されたか、混血による同族化していったか、または、戦後の日本が急にアメリカ化したように、この時代に急激に騎馬民族文化を九州から大和まで広く取り入れていったか、受け取り方は人により違うようだ。

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