騎馬民族国家
わたしが学校教育で教えられたのは、世界に比類のない純血の皇室、万世一系の今上天皇への忠誠でした。
敗戦後、いわゆる皇国史観の呪縛がとけて、騎馬民族征服王朝説が提唱された。
わたしが学校教育で教えられたのは、世界に比類のない純血の皇室、万世一系の今上天皇への忠誠でした。
敗戦後、いわゆる皇国史観の呪縛がとけて、騎馬民族征服王朝説が提唱された。
これを継承した水野祐や石渡信一郎や大羽弘道らは、第一次加羅系集団の渡来と第二次百済系集団の渡来があったなどと主張する。
二世紀・三世紀に北九州で栄えた邪馬台国も、卑弥呼が死に、台与による平安も長くは続かぬ。台与は朝貢していた魏に救援を要請する。
二世紀・三世紀に北九州で栄えた邪馬台国も、卑弥呼が死に、台与による平安も長くは続かぬ。台与は朝貢していた魏に救援を要請する。
第一次加羅系集団は、騎馬軍団を有した崇神王が、342年頃南加羅の国王となり、魏の命をうけて350年頃に倭国に渡来して九州を平定し、さらに東征して大和盆地の纏向に王都を建設し、加羅と日本列島内にまたがる連合王国を築いた。
(日本書紀では、これを「神武東征」として記載しているが、神武は架空の人物で、実際は崇神であった。)
崇神王が東征した跡、九州の邪馬台にはしばらく空白状態が続く。そこに新羅や百済の騎馬民族系の王族が渡来し、台与国と名をかえて治める。
第二次百済系集団は、百済・蓋鹵王(在位455~475)の弟・昆支(440~506)が、461年に蓋鹵王の命で倭国に渡来して新羅系を排除して治め、さらに東征して河内にはいる。
ここで大和の崇神王朝と対立するが、やがて和平を結んで大和に入り、後に応神王となった。
(日本書紀では、これを「神武東征」として記載しているが、神武は架空の人物で、実際は崇神であった。)
崇神王が東征した跡、九州の邪馬台にはしばらく空白状態が続く。そこに新羅や百済の騎馬民族系の王族が渡来し、台与国と名をかえて治める。
第二次百済系集団は、百済・蓋鹵王(在位455~475)の弟・昆支(440~506)が、461年に蓋鹵王の命で倭国に渡来して新羅系を排除して治め、さらに東征して河内にはいる。
ここで大和の崇神王朝と対立するが、やがて和平を結んで大和に入り、後に応神王となった。
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