2016年5月9日月曜日

日本古代史の謎 白江村の戦(再改訂)

日本古代史の謎 白江村の戦


663年、中大兄皇子(後の天智天皇)が、倭国滅亡の危険を冒して、27,000の大軍を白村江に送り、当時の超大国・唐と戦ったのは何故か・・?
唐の最大領域

660年に百済は唐・新羅の連合軍の攻撃を受けて滅亡した。
それでも663年に中大兄皇子(後の天智天皇)は百済復興を目論み大軍を白村江に送ったが、大敗を喫し百済救援は失敗に終った。


国家滅亡の危機を冒してまで、当時の超大国唐と戦ったのは、天皇家の故国が百済であるのでは?。


「百済から渡来した応神天皇」石渡信一郎著(三一書房)では、天皇家の故国が百済であると主張。
石渡氏の主張は、有名な江上波夫氏の騎馬民族征服説をベースにしたもの。

関裕二のいくつかの著書では、中臣鎌足は百済王子の扶余豊璋ではないか?と主張している。大事な白村江の戦の時期には、鎌足の記事が消えて、戦のあとにまたあらわれるのは、この戦の時百済に帰国していたのだという。
鎌足の死後の壬申の乱は、親百済派の天智天皇とその子の大友皇子の近江朝に対して、親新羅派の天武天皇の闘争でもあった。だから藤原不比等は天武朝から完全に干されていた。
壬申の乱

 これらの遠因となるのは磐井の乱で、百済と友好な継体王朝と、新羅と友好な磐井の間の戦争であった。そして磐井は敗北したが、新羅は次第に百済に侵攻していった。

 百済との友好関係は、継体天皇以後も斎明天皇や天智天皇の時代まで続いた。新羅に敗れた百済の将、鬼室福信は百済復興のため周留城を拠点にして各地で戦い、同時に大和朝廷に支援を求めた。
中大兄は661年に百済援軍5千、662年に新羅攻撃に2万7千、663年に白村江に1万の兵を派遣したが、地方豪族の寄せ集め兵力だったので白村江の戦いで惨敗し、新羅援軍は残留捕虜となった。一説では地方豪族の兵力を裁兵としたという。
あとは、新羅の反撃をおそれて大和王朝は防衛体制の強化に努めていた。大宰府羅城や瀬戸内沿岸に多数の防衛城を築いた。これらは中央集権への拡充策でもあった。
 しかし天武天皇時代になると、唐と新羅が反発し、日本への反撃でなく、唐と新羅からの友好の使者が何度も大和王朝を訪れている。
 これは天武天皇が新羅との友好関係の推進者であったことの証明である。



別の説: 
   白村江海戦の謎~戦ったのは大和朝廷ではなかった?
 北村浩司氏の説 

663年、白村江河口の海戦において倭軍は壊滅的な敗戦を喫し、支援していた百済は滅亡した。この結果、朝鮮半島南部(現在の韓国)は新羅の支配するところとなり、新羅と唐の同盟軍に挟み撃ちされる形となった高句麗も、5年後に滅亡することとなる。
この時代の東アジア、特に朝鮮半島の情勢は、「唐・新羅連合」対「高句麗・百済・倭国連合」の勢力争いであった。この争いが唐・新羅連合軍の完勝に終わったということである。

従って、敗戦国である百済・高句麗は国自体が消滅してしまった。
問題はなぜ、日本だけが国として存続し、かつ、不可解にも戦争時点で軍最高司令官であるはずの中大兄皇子が敗戦後も国家元首(天智天皇)に就任することができたのかということである。
天智天皇については、もう一つの疑問がある。日本書紀によれば、天智天皇の業績に特筆すべきものはない。それどころか国力を傾けた百済支援は白村江の大敗によって、投下した兵力・武器・兵糧、つまり人材と資本をすべて失った。
教科書的には、646年の大化の改新が挙げられるが、これは明治維新で初めて命名された(それまでは、乙巳の変と呼ばれていた)もので、公地公民が実施されたのは実際は670年以降である。つまり、実際は天武・持統以降である。
にもかかわらず、後の平安時代以降の天皇はすべて天智天皇の子孫であり、藤原氏も天智天皇の血筋である、という説もあるくらい、後の世において天智天皇は特別視されている。
本来であれば、天智天皇を「戦争責任者」として連行してもおかしくない唐・新羅も、日本書紀を見る限り丁重な態度であるし、実際に戦争責任を問題にしていないことは、遣唐使がほどなく復活し、遣唐使復活以前にも唐・日本間の交流(捕虜の返還など)があったことからも明らかだ。
以上の状況、つまり、日本国内において特別視されていること、かつて戦争した国から責任を問われていないこと。これらは、白村江の戦いの意味を考えれば、教科書に書かれている歴史には大いに矛盾を感じざるを得ない。



○白村江を戦ったのは日本ではなく倭国ではないか?
唐の国書である旧唐書には、白村江の海戦までは、倭国に関する記事と日本国に関する記事が並立している。倭国は、かつての邪馬台国であり、さらに遡って後漢の時代に朝貢した倭奴国である、とされており、一方日本国は、「倭国の別種」とはっきり書かれている。つまり、倭国と日本は別の国として認識されている。
そして、白村江の海戦以降、「倭国」に代えて「日本」を国の正式な称号として認め、日本国天皇を承認している。その後、倭国に対する記述は登場しない。


これらの流れを、合理的に説明しようとすれば以下の仮説が成立するのではないか?
1.倭国と日本は別の国(勢力)であり、唐・新羅と戦ったのは倭国である。そして倭国は戦争責任を取らされ、滅ぼされた。
2.唐・新羅が天智天皇の「日本」を優遇した(あるいは認めた)のは、白村江の戦いに参加しなかったからである。おそらく天智天皇は、白村江以前から唐・新羅と内通していた。
3.後世に評価される、天智天皇の最大の業績は、「倭国」から「日本」へ、日本列島を代表する政権を移したことにある。

日本書紀は680年から720年にかけて日本の正史として編纂されるが、書紀の大前提は、「万世一系の天皇家が、日本列島を代表する唯一無二の政権である」ということだから、天皇家以外の政権があったとしても「なかった」と書かなければならない。
中国の史書を読めば天皇家ではない政権が歴代王朝に朝貢しているのは明らかなのに、それらの政権については書くことができなということではないだろうか?
そして、天皇家以外の政権はなかったという前後のつじつまを合わせるためには、前世代の政権から日本列島の支配を奪った天智天皇の最大の業績を、そのまま書くことはできなかった。

だから、大化の改新については過大評価するし、後の時代にも特別視されているということではないだろうか。

この北村説の倭国では、倭国が磐井の乱の磐井とすると、親新羅派であったから矛盾する。
磐井の勢力範囲

ここで登場するのが、筑紫国王と豊前国王の九州二王朝説である。


筑紫国王は新羅派で、豊前国王は百済派であった。百済王子の豊璋は豊前に亡命していたのだろう。
磐井の乱以後は、磐井族は筑前に一部が残留するだけで、豊前国王のほうが九州倭国の主勢力であったから、白村江の戦には、当然豊前国王が、主力で務めたということだろう。その実態は九州物部族だったろう。
磐井族の残留地域

敗戦後豊前も殆ど大和勢力に吸収され、九州倭国は全く消滅していったとすれば、北村説が納得できる。

NHKの「歴史の選択」によれば、中大兄の時代は、倭国というより地方豪族がまだ律令国家として統一されておらず、その勢力を外敵のために集結して消耗させるための「裁兵」作戦だったしている。戦に勝てば豪族の兵を外地に送り、負けて消耗しても、大和朝廷の優勢となる。唐軍の日本侵略は考慮していなかったという説である。
結果としては、たしかにこの様になり、その後の律令国家成立につながっていったが、あと読みの感じの説である。

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