2016年5月30日月曜日

藤島武ニ



藤島武二:
薩摩国鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)の薩摩藩士の家に生まれた。
はじめ四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶが、のち24歳の時洋画に転向(日本画の作品は殆ど現存しない)。
1896年明治29年)、1歳年上の黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推され以後、没するまでの半世紀近くにわたり同校で後進の指導にあたった。

1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。
ただし、パリからローマに移った直後の事故で、フランス時代の作品の大半を失っている。帰国後、教授に就任する。

黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。


1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。


晩年は宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1934年昭和9年)12月3日帝室技芸員[2]1937年(昭和12年)、最初の文化勲章受章者の一人となる。1943年脳溢血のため永眠。享年75。

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