生い立ちとお由羅騒動
文化6年(1809年)3月14日、第10代藩主・島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれる。
母・弥姫(周子)は「賢夫人」として知られた女性で、この時代には珍しく斉彬はじめ弥姫出生の3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手で養育された。
母・弥姫(周子)は「賢夫人」として知られた女性で、この時代には珍しく斉彬はじめ弥姫出生の3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手で養育された。
また、曽祖父である第8代藩主・重豪の影響を受けて洋学に興味をもつ。これが周囲の目に蘭癖と映ったことが皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされる。
斉彬が藩主に就任となれば、重豪のように公金を湯水のごとく費やし藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと特に藩上層部に心配され、斉興は斉彬が40歳を過ぎてもまだ家督を譲らなかった。
そして、家老・調所広郷(笑左衛門)や斉興の側室・お由羅の方らは、お由羅の子で斉彬の異母弟に当たる久光の擁立を画策した。
斉彬派側近は久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島・謹慎に処せられた。
斉彬派側近は久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島・謹慎に処せられた。
斉溥の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平慶永らが事態収拾に努めた。
こうして嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が第11代藩主に就任した。この一連のお家騒動はお由羅騒動(あるいは高崎崩れ)と呼ばれている。
阿部正弘 |
藩主時代
藩の仙厳園には、ガスの発生装置をつくり、ガス灯を配置した。
黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。
また、若い家老の小松帯刀や、下士階級出身の西郷隆盛・大久保利通など人材を登用して朝廷での政局に関わる。また多数の若者の海外留学もおこなっている。勝海舟も彼の教育方針を高く評価している。
特に、従順な者より偏った意見を持ったも者に着目し、その才能をのばすように教育した。
斉彬は松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝・黒田長溥・鍋島斉正らと藩主就任以前から交流をもっていた。
また、若い家老の小松帯刀や、下士階級出身の西郷隆盛・大久保利通など人材を登用して朝廷での政局に関わる。また多数の若者の海外留学もおこなっている。勝海舟も彼の教育方針を高く評価している。
特に、従順な者より偏った意見を持ったも者に着目し、その才能をのばすように教育した。
斉彬は松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝・黒田長溥・鍋島斉正らと藩主就任以前から交流をもっていた。
斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。特に斉彬は黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。阿部正弘の内諾を受け、薩摩藩の支配下にあった琉球王国を介して、フランスとの兵器購入・交易を画策し市来四郎を派遣したが、後の斉彬の急死で頓挫している。
第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、宗城ほか四賢侯、斉昭らは次期将軍に斉昭の子の慶喜を推し、篤姫を近衛家の養女とした上で家定正室として嫁がせるなどしている。
斉彬は公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願している。
篤姫 |
最期
斉彬はこれに対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、その年の7月8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、7月16日に死去した。享年50(満49歳没)。
死因は、当時日本で流行していたコレラという説が有力であるが、そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとも併せ、父・斉興や異母弟・久光またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。
これらの歴史を桜島は見続けてきた。
福昌寺(ふくしょうじ)はかつて鹿児島市に存在した曹洞宗の一大寺院で、 薩摩藩主島津氏歴代の当主の菩提寺でもあったので、斉彬もここに眠っている。
江戸時代に書かれた『三国名勝図会』によると大伽藍を備えた南九州屈指の大寺であり、最盛期には1500人の僧侶がいたと言う。
明治の廃仏毀釈により破壊され、現在は戦国期の義久、義弘、歳久、家久や、幕末期の斉彬、久光など、歴代島津氏当主の墓地群のみが残っている状態(跡地には現在、鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校が建てられている)が、この福昌寺跡が実に素晴らしい史跡なのである。
死因は、当時日本で流行していたコレラという説が有力であるが、そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとも併せ、父・斉興や異母弟・久光またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。
これらの歴史を桜島は見続けてきた。
福昌寺(ふくしょうじ)はかつて鹿児島市に存在した曹洞宗の一大寺院で、 薩摩藩主島津氏歴代の当主の菩提寺でもあったので、斉彬もここに眠っている。
江戸時代に書かれた『三国名勝図会』によると大伽藍を備えた南九州屈指の大寺であり、最盛期には1500人の僧侶がいたと言う。
明治の廃仏毀釈により破壊され、現在は戦国期の義久、義弘、歳久、家久や、幕末期の斉彬、久光など、歴代島津氏当主の墓地群のみが残っている状態(跡地には現在、鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校が建てられている)が、この福昌寺跡が実に素晴らしい史跡なのである。
斉彬夫妻の墓 |
私の地元黒田藩(福岡)との縁は薄かったが、藩主黒田長溥とは親類であり、嘉永4年 箱崎別邸にて会談の記録がある。
このとき斉彬は福岡領内を見て回り、住吉宮を参詣している。
初のお国入りに際し福岡に寄ったのだが、当時前藩主がなくなり喪中であった長溥への見舞いと、おそらく相互の家督相続に支援してくれた事への感謝を伝えたのだろう。
大河ドラマドラマには全く取り上げられなかった史実である。
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