大化の改新で功をおさめた藤原氏は、急激に勢力をのばし、藤原不比等の子の四兄弟の時代をむかえた。しかし天武,、持統天皇以後の政治は、結構波乱が多かった。
皇位争い問題で、長屋王の変がおこり、九州では藤原広嗣が謀反の兵をあげた。
さらに橘奈良麻呂の変や、恵美押勝の乱などが続き、道鏡の皇位問題で宇佐八幡での神託事件もおこった。
2)藤原広嗣の乱
広嗣は、藤原四兄弟が相次いで亡くなったのち、9月に従六位上から三階昇進して従五位下になり、式部少輔を経て、天平10年(738年)4月に大養徳守を兼任する。
1)長屋王の変
不比等の生前中は、舅と娘婿の間柄であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が衝突し、その対立が露になってきた。
神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され、自らは服毒自殺した。これが長屋王の変で、讒言であったとする説が強い。
王の薨去後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立するも、天然痘により天平9年(737年)に4人とも死没してしまった。王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。
神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され、自らは服毒自殺した。これが長屋王の変で、讒言であったとする説が強い。
王の薨去後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立するも、天然痘により天平9年(737年)に4人とも死没してしまった。王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。
2)藤原広嗣の乱
広嗣は、藤原四兄弟が相次いで亡くなったのち、9月に従六位上から三階昇進して従五位下になり、式部少輔を経て、天平10年(738年)4月に大養徳守を兼任する。
時の権力者右大臣・橘諸兄は、真備と玄昉の起用を進めた本人で、これは諸兄への批判であると考え、聖武天皇より広嗣の召喚の詔勅を出させた。
広嗣は勅に従わず、9月に入ると弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした。
広嗣は勅に従わず、9月に入ると弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした。
だが孝謙天皇は道祖王に不行跡があるとして皇太子を解き、仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。
右大弁の奈良麻呂は仲麻呂の専横に強い不満を持ち、大伴古麻呂、小野東人らと語らい、仲麻呂の排除を画策した。
右大弁の奈良麻呂は仲麻呂の専横に強い不満を持ち、大伴古麻呂、小野東人らと語らい、仲麻呂の排除を画策した。
奈良麻呂は会合を重ね密かに同志を募ったが、そこから密謀が漏れて、山背王が仲麻呂に「奈良麻呂らが兵器を準備している」と密告した。
まづ東人が捕らえられ、その供述に基づき、奈良麻呂、道祖王、黄文王、古麻呂など名前を挙げられた人々は一斉に逮捕された。
まづ東人が捕らえられ、その供述に基づき、奈良麻呂、道祖王、黄文王、古麻呂など名前を挙げられた人々は一斉に逮捕された。
孝謙天皇は逮捕された人々を本来は死罪に処すところ、死一等を減じて流罪に処するとしたが、しかし政治の粛正を図りたい仲麻呂は断固として手を緩めなかった。
翌日、謀反に関わった道祖王、黄文王、古麻呂らは全身を訊杖で何度も打つ拷問で次々と獄死した。
首謀者の奈良麻呂については『続日本紀』に記録が残っていないが、同様に獄死したと思われる。
後に奈良麻呂の孫の嘉智子が嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となったために記録から消されたと考えられている(橘奈良麻呂の乱)。
4)恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
藤原仲麻呂は、叔母の光明皇后の信任を得て次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明子の権威を背景に事実上の最高権力者となった。
4)恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
藤原仲麻呂は、叔母の光明皇后の信任を得て次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明子の権威を背景に事実上の最高権力者となった。
天平宝字2年(758年)8月、大炊王(淳仁天皇)が即位すると、大保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられ、さらに史上初の太師(太政大臣)にまで登りつめた。
押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植したが、同年6月に光明子が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめる。
押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植したが、同年6月に光明子が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめる。
さらに、押勝は、淳仁を通じて孝謙天皇に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これがかえって孝謙を激怒させた。
敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだしてなおも逃れようとするが、官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。
道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡も自ら皇位に就くことを望む。
5)宇佐八幡宮神託事件
清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて大神に宣命を訊くことを願い出る。大神は清麻呂に「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という神託を出し、清麻呂はこれを大和に持ち帰り奏上す。
そして詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自ら(称徳天皇)が決める事を改めて表明する。
しかし女帝が死去すると、皇太子は白壁王(後の光仁天皇)と決定され、道鏡は下野国の薬師寺へ左遷(配流)された。
そして詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自ら(称徳天皇)が決める事を改めて表明する。
しかし女帝が死去すると、皇太子は白壁王(後の光仁天皇)と決定され、道鏡は下野国の薬師寺へ左遷(配流)された。
0 件のコメント:
コメントを投稿